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多様性という悪霊
2010年2月号
世の中には、誰もが信じて疑わない“進化”の代名詞がある。“豊かさ”も“多様性”も、現代社会の進歩を誇る代名詞の代表だ。しかし果たしてそういうものなのか。
現代社会は豊かになった。しかしそれは一部の社会のモノの豊かさでしかなく、心の世界は豊かでなく、かえってすさんできてはいないか。
多様性は最も強い自然性である。しかし僕は最近、この“多様性”という言葉にも疑問をもっている。食うために生きた貧しい時代は選択手に乏しかった。豊か さは厖大な選択手を保証し、個性の発揮を保証する。そう、個性は多様だ。君と僕は違う。生き方もちがう。好みも違うし、勝手さも違う。そう、宇宙も自然も 多様である。だから人間世界も多様で当然。
だけどホントにそうなのか。気が遠くなるほど奥深い宇宙は、実は整然たる法に則って動いている。多様な自然の世界でも、厳然たる法が働き、生物はその下に生きている。
植物学者の宮脇昭先生から教えられた。「生物が生きるための最高条件と最適条件とは違います。すべての欲望を満足できる最高条件は危険な状況です。最適 条件とは、すべての欲望は満たされず、少し厳しく少し我慢を強要される状態です。」「生物は競争しながら、少々苦手なものとでも少し我慢をし合いながら共 生している」ということだ。
貧しい時代は食うのに精いっぱいだったが、手を携えて乏しきを分かち合い、皆のために我慢もしたし、切磋琢磨(=競争)して一所懸命に生きた。欲求は「ほどほど」というの範疇にあったと思う。しかしいま、欲求に制御なく、際限なく肥大している。何もかも最高のものを要求し、まわりとのバランスや最適解など糞喰らえだ。
「食えないけれど、介護の仕事は厭だ。田舎の百姓仕事も厭だ。」「会社が潰れても、年金の減額は困る」「国の安全は守って欲しい。だけど基地は沖縄 で。」どれもが滅茶苦茶に勝手だ。インターネットでの交信相手は不特定多数で顔が見えないから、何を言っても心は痛まない。節度という倫理など踏みにじっ てしまえ。ついでに隣近所とも電車の中でもかかわりなど持ちたくない。
これが実は、多様性という名の実態の大半なのではないか。真摯に生きてる人は、個性の発揮とか生き方の多様性という言葉など使わない。生き方に節度をこそ欲し、切磋琢磨という一途さをこそ大切にする。けだし現代社会では、“多様性”という美名のもとに節度のなさ、倫理の欠如、勝手我儘が放置されているだ けではないのか。
物言わぬ自然の生物は、共生と我慢と競争という最適条件を実践しながら、生きている。豊かな現代人間だけが則を失い、多様という際限なき闇に首を突っ込み、生きる原点を喪失し、自然の摂理に背を向けている。
これ以上の多様性の拡大は無秩序を呼び熱死にいたる道だと思う。私たち現代の不幸人はもうそろそろこのことに気づかなければならない。心ある者たちよ、 誓い合おうよ。世代や立場や国家間の多少のフリクションは厭わずに、多様性という悪霊をこの辺で退治して、我慢と共生と切磋琢磨に心して、生存の最適条件 を見出す渾身の努力を。
熱死の危機は地球の人間圏だけではないと思う。人間の尊厳の象徴であるはずの心の世界が、爛熟し熱死の危機に瀕している。【工藤】