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東京に笑顔を
2015年11月号
笑いとペーソスは、ゆったり幸せの潤滑油である。昔の人はよく笑った。笑う門には福来る…浪越徳二郎の高笑いも懐かしい。ペーソスとは、もの悲しい情緒だという。何と素晴らしい情感なのだろう。
今、東京には笑いもペーソスも消えてしまった。ひとは皆、怒ったような無愛想を引っ提げて、早足で歩いている。過密ダイヤに急かされて、ブツカリ合って睨み合い、満員電車にお尻から乗る人たちに、笑いはないしペーソスもない。あるのは、周りの人や情景に対する拒絶のバリアだけである。一体どうして東京は、人をこんなに変えたのだろう。
そんな中、鶴瓶の「家族に乾杯!」が人の心を掴んで離さない。シナリオなしで「やらせ」なしのブッツケ本番と鶴瓶の人懐っこさが受けている。人の心にズカズカと入り込む図々しさも、心地良いリズムとして受け容れられている。
この番組は、現代東京の「欠落」を焙り出してくれている。鶴瓶は、大阪の長屋で育ったそうな。長屋はみんな貧乏で、干渉し合って助け合うフラット社会である。隣のおっちゃん、おばちゃんから愛されて「察する力」が育ったと鶴瓶はいい、愛されんと前に進めへんという。
東京は格差社会で、勝ったものの天下である。だから、阪神ファンが、万年ズッコケのタイガースを罵倒しながら応援するペーソスなど、東京人は絶対に理解できない。東京は、孤独のバリアを互いに侵さない約束だから、長屋と違って、競争にくたびれたら放り出されて、社会の澱(おり)として沈殿する。
「家族に乾杯!」のゆったり間合いが実に見事だ。東京の番組は、シナリオ漬けの「やらせ」だから、間合いなく艶もなく、セリフの順番があるだけで、ゆったリズムとはおよそ無縁だ。
鶴瓶は言う。「家族に乾杯」はブッツケ本番やから「予定調和」がなく、アクシデントが必須や。コトが起きたら困り果てずに、笑い飛ばして面白くする。
東京は「予定調和」にこだわる精緻な管理社会である。「こうしたらこうなる」というシナリオを頑なに信奉する窮屈社会である。
しかし、「こうしてもそうならない」のが人間社会である。「予定調和」は、正常人ならこうするというシナリオだが、現実社会には、不心得者も異常者もおり、特に近年は、通りがかりにもたくさん目にするようになった。
東京が誇る「予定調和」の典型は、超精緻で超過密な鉄道ダイヤである。…がいま、そのダイヤが、不心得者や異常者の悪戯心にさえ振り回されて、大乱れである。リダンダンシー(冗長さ)を持たぬまま、JRや電鉄間がまるで白蟻の大群のように連動するダイヤは、遅延列車に合わせて全列車を遅らせる、負の調整連鎖で、都下の全ダイヤは延々と遅延する。遅れて困る人は、自分でリダンダンシーを創って、1時間ほど余裕をもって電車に乗って防御するしかない。これはもはや「予定調和」などではないだろう。
だがものは考えようだ。「またまた列車は遅れま~す」…怒るのも馬鹿馬鹿しい車内放送が常態化すると、スマホと睨めっこするのをやめて「また遅延ですか。仕様がないですネ~」と呟き合って、車内に失笑の連帯感が醸し出されるかもしれない。「遅れたらええ。遅延証明書さえもらえれば被害はないし」「遅れてもええよ。1時間余裕もって乗っとるんやから」と、乗客が開き直りさえすれば、鶴瓶流の「開き直って笑い飛ばす」の東京版だ。禍転じて福となす!東京の鉄道ダイヤが超精緻な「予定調和」を諦めて、常時遅延でズッコケてくれたら、東京はわさわさとゆったりズムに変容するかもしれない。
東京には、笑いもペーソスもないだって?そんなことはない。江戸の町は屈託のない笑いとキュンとなるペーソスに包まれていたし、敗戦後助け合った東京の下町にも確かにあったのだ。何かの間違いではないのか?もし本当になくなったのなら、開き直ってリズムを変えて、取戻さないといけない。ゆったりズムの中の笑いとペーソス、それにリダンダンシー(冗長さ)こそ生活の大切な彩りなのだから。【工藤】