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社長コラム

工藤さん

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親父の背中

2019年1月号

 僕は「親父の背中」を知らない。
 父は、僕が中学2年の時、四十四歳で死んでしまった。天皇陛下万歳という世界に身を捧げる職業軍人だった父は、三十三歳で終戦を迎えた。 青春の真っただ中にある自分の、生きる根底が灰燼に帰したことで、父は絶望したのだろう。心を切り替えられず、心を燃やす対象を失い、青春も人生も無くしてしまった。

 父が一度だけ熱く語ったことがある。僕が小学校に入ってまもなくだったか。戦後間もなく、久留米の駅のプラットフォーム上で、進駐軍の兵隊が日本の女性をいたぶっていたらしい。父は見かねて、兵隊を線路上に突き落とし、発車寸前の電車に乗り込んだ。追跡をかわすために次の駅で降り、1時間歩いて帰ってきたという。

   父が自分を熱く語ったのは、アメリカ軍を拒否したこのことと、戦中に、敵の銃弾が両太腿を貫通して死に損なったときのことだけだった。銃弾が入った傷は小さく、銃弾が出た傷跡が異常に大きかったのを、今でも鮮明に覚えているが、父はちょっと誇らしげだった。

   ただただ厳格で恐いだけの存在で、僕は一所懸命に生きる生身の父の背中を知らない。唯一身近に父を感じられたのは、夕方の路上で、竹刀で切り返しの練習をさせてくれたことだけだった。だから、そんな僕は、人生を生きる羅針盤を持たないまま、やみくもに走ってきた。

   その私が走り抜いた日本は、有色人種として初めて世界を席巻して(そういえばジンギスカンも居た)、「JAPAN AS NO.1」と白人社会に言わしめた。私でさえ、ジェットエンジンの戦略重要素材である超合金の、アメリカのメーカーの買収を手掛け、ペンタゴンから、「米国益に反する」と超法規的な妨害に会って、国家や世界を身の丈で感じられたものだ。。

   その間日本は、「西欧を追い越せ!」と、世界に羽ばたくために、ひたすらアメリカ文明の徒となって、自前の伝統文化を粗末にし、近隣諸国を歯牙にもかけて来なかった。しかしそれでも、日本の伝統文化が、私たちの心の隅っこに、今でもしぶとく生き残っているのには、救われる思いである。

   こうして世界を席巻したかに見えた日本は、いったい世界のなかでどういう存在だったのか?
 
   百数十か国を抱える世界には哀しいことに、多様性の容認と共生の精神が欠落している。

 その中にあって、八百万の神を信じ、多様な価値の共生を許容する文化をせっかくもちながら、世界が多価値を認めて共生していくための真摯な役割を果たすでもなく、世界に堂々と国是を主張したことも、クジラとマグロの捕獲問題を除いて皆無に近い。

 その結果、顔の見えないエコノミック・アニマルと、揶揄されてきた。確かにODAでは、世界最大の援助国として、長年世界に貢献してはきたものの、ほとんどの被援助国の民は、中国の民も含めてこの事実を知らない。軍備を持たない平和国家と称しながらも、世界で8番目の軍事費をもち、アメリカに追随するままで国益を明確にしない日本は、不可解で頼るに値しない国と映ってきた。

 そして私が77歳の喜寿の今、日本は、世界の中の存在感は希薄化し、 急速な高齢化と人口減少に加えて、膨大な財政赤字に悩む国になってしまった。何と日本は、無定見のまま、いつの間にか世界第4位の移民受け入れ国になっており、いまや日本社会は、100万人を超す外国人の底辺労働者なしには成り立たなくなっている。単純労働力としてしか扱われない外国人の働き手は、稼ぐのに精いっぱいで、日本の風習とか文化に溶けこむなど眼中になく、自国の風習を持ち込んでギリギリのミニ異質社会を形成する。

 そもそも「多様性の許容」とか「融和・共生」は、日本伝統文化の真底だったはずなのに、単一性に甘えてきた現実の日本文化には、とてもこれらを融和し受け入れる力などなく、いまや日本は、カリフォルニアのチャイナタウン、コリアタウンにジャパン村等々が閉鎖的に乱立するのと同じ状況に進んでいる。アメリカは、「ユナイテッド・ステーツ」…もともとそういう成立ちの国である。

 しかし、実は多様性でなく単一性に執着する日本は、闖入するこれら異文化と融和できずに消化不良を起こしており、「八百万の神様」の日本は、いまやただ「ぐちゃぐちゃで芯のない」国になりつつある。街中に響く耳慣れない外国語の「發音」(はねるおん)に、私は思わず顔をしかめ、「年取ったか」とひとりつぶやく。

 これが、私なりに一所懸命に生きてきた、76歳現在の日本の実相である。喜寿は、常識的に隠遁の身なのだろうから、私の「親父の背中」というものは、もう出来上がっているのかもしれない。しかし私は、いまの日本の現状を、私の背中のキャンバスに書き込まれる「一所懸命に生きた場」として認めたくない。死んで背中が問われるのなら、もっと納得いく社会のために生きた自分を書き込んでほしいと思う。だから私はまだ隠遁するわけにいかない。

【工藤】

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