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工藤さん

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世界に輝(ひか)る日本の宝

2012年4月号

 人類の歴史の中で、たくさんの国が栄華を極め消え去っていった。ローマ、ポンペイ、カルタゴ、モンゴル…。

 個人に、何のために生きるかという課題があるように、国にも後世に語り継がれる「国の形」というものがあるだろう。もっとも人類が早々と自滅してしまわなければ…のことではあるが。

 国は国際性の中で存立しており、その国際性は、大略ふたつある概念のひとつによって律せられてきた。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」博愛主義と「目には目を」の報復主義がそれであり、世界は後者が律してきた。前者はキリストの教えが原点であり、後者はマホメットが原点であるが、キリスト教を国教 とする国家群さえも現実には後者でシマを張ってきた。

 しかし「目には目を」が闊歩する国際社会にあって、世界歴史で唯一「右の頬をぶたれても黙り続ける」気高い理念の国がある。日本という国だ。世界が米ソの二極で支配されているうちは、恐(こわ)持ての平和があったから、気高い理念の現実適応性があえて問われることはなかった。
 しかしソ連の消滅で二極体制が崩壊し、欧米が弱体化した後、世界は無秩序状態に陥り、強弁するものが得をするという国際政治の本質が剥き出しになってきている。ために今、日本が掲げる理念の現実適用性が厳しく問われている。

 戦後長きにわ たり守られてきた憲法九条は、国の自衛権をさえ否定する。中国の巡視船が領海侵犯しても、並走するだけで何もしない警備艇…領海侵犯した中国漁船から体当 たりされて慌てふためく警備艇に、国民は素朴に憤慨する。内紛・アフリカ支援に派遣された自衛隊員が、基地の外でゲリラに攻撃されても応戦できず、外国の 軍隊に助けを求めるしかないというのはどこかがおかしい。

 北朝鮮が、テポドンに続いて、今度は弾道ミサイルを沖縄上空に威嚇発射するという。中国、韓国、ソ連との国境紛争も絶えない。既成事実が正となる国際政治の中で、日本 領海の石油を、横からストローで吸い続ける中国…その暴挙を傍観するだけの無能政府に歯ぎしりする国民の心は苛つき、短慮化し、「やってまえ!」とテレビ にむかってシャウトする。いつまでも頬をぶたれたままで黙っておれるか、ぶたれたら怒るしかないではないか…と、素朴に自衛権に目覚める。

 そしてさらに、人間の哀しい性(さが)が顔を出し、「核が力」であるのなら、日本も核で武装すべし、目には目をと、国民の心をけしかける。
 自衛への目覚めが、「自衛権をさえ否定する」憲法九条の現実適応性を問い質そうとする現象は、自然の成り行きだといえる。

 だがしかし日本は、「核」にだけは、絶対に手を染めてはならない。限りない報復連鎖の極にある「核」は、人間に許される閾値を超えてしまっている。地球を何百回も破壊できるほどたくさんの核を、人間の我欲紛争の解決ツールにしようとする、人間の思い上がりを決して許してはならないと私は思う。

 そもそも自然界で迷惑な存在である人間ではあるが、いや、あるがゆえに、最後の一線だけはきちんと踏みとどまらないといけない。最後の一線…それは、人間が勝手に地球を破壊してはならないということだ。

 唯一の被爆国日本。人間本能を剥き出しにした国際政治の中にあり、核爆発の悲惨を訴え、核不保持の決意を60年余も続けてきた国・日本。

 千変万化の美しくやさしい自然に育まれた日本人だからこそ、「報復」より「受容」、「正・邪」より「多価値・多様の共生」を尊んで、報復本能・破壊本能の制御を身を呈して世界に訴求して来れたのだと思う。

 人間の歴史の中の、日本の「国の形」はどのようだろうか。かって経済大国と評され、エコノミック・アニマルとも揶揄された面影は、今の日本にはすでにない。日本という国は、世界一の年寄り国だったと、後世に伝えられるだけではいかにも寂しい。日本は美しい自然に恵まれた国だったけど、地震大国で可哀そうでもあったなど と同情される以上の、実のある国であってほしいと私は願う。

  核の廃絶を敢然と主張し、人間が守るべき「最後の一線」を訴求し続け、人間の尊厳を守ろうとした日本。小柄だったけど実に見事な国だったと、人類の歴史の中に、多様性に寛容だった大国・ローマとともに燦然と眩い、多価値・文化大国・日本であり続けたい。【工藤】


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